山梨県競馬会にて行われていた甲府競馬は
戦中
山梨愛国飛行場(玉幡飛行場)の拡張に利用され競馬開催は終了した
そこ、玉幡軍民共用飛行場は山梨航空技術学校の認可を受け
サルムソン機を使用して飛行士養成するなどの熊谷陸軍飛行学校甲府分校を設置
後の山梨航空機関学校へと変わり末期には特攻訓練なども行われた
太平洋戦争終結後に閉校となったその場所に
地方復興財政の捻出の為、新たな地方競馬法の認可を玉幡競馬場として受け
1945(昭20)年:第一回の玉幡競馬が開催された
しかし、その一回の開催後
アメリカ軍爆撃機B−29による甲府空襲(たなばた空襲)を山梨県甲府市を中心とした都市が受けた
それにより全焼した山梨県立農林学校(後:県立農林高等学校)の移転先に
玉幡競馬場が指定され
その後、この地での競馬は開催はされる事なく、そのまま廃止競馬場となる
昭和37年に廃線となった玉幡から今諏訪を結ぶ山梨交通の路面電車(通称:ボロ電)のその駅名も
甲府競馬開催期間中は「玉幡仮停留場」という臨時駅
後に「競馬場前」名が正式駅となり
競馬場が飛行場に替わると「飛行場前」となり
軍施設時は施設が明らかになる駅名は回避せよの令で「釜無川」駅となり
その後「農林高校前」と、路線が廃止になるまで
目まぐるしい歴史の動きに合わせ
改名を続ける事になった
現在跡地は山梨県立農林高等学校および警察学校の校舎や釜無工業団地の建物があり
当時の競馬場や戦争の面影は残ってない
山梨県中巨摩郡玉幡村(現:甲斐市)
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